
-真実を知ること 生きること そして、愛について-
タイプ5の方からの質問に答えて
ご質問の概要(要約なのでその方の言葉通りではありません):残酷な世界観だけでは、偏った世界の見方だなと思う。見方を変えるには他のタイプの世界観を自分の中に感じられる事が1番早いのではないか。
「この世界は残酷だ」
コロナ自粛が続く中、家で動画配信の映画やアニメを観る機会が増えている人も多いのではないかと思います。過去に配信された作品を一気に観ることができるのも、動画配信ならではの魅力です。
筆者もAmazonプライムなどでずいぶんたくさんの動画を観ましたが、ここにきていちばん興味深いのは『進撃の巨人』=(諫山 創(いさやま はじめ)2009年から『別冊少年マガジン』にて『進撃の巨人』の連載を開始)。
壁の中の“人類”を巨人が襲い喰らうという話。ファーストシーズンで、主人公の少年エレンが助けた少女ミカサの視点でみた世界が語られています。それは『この世界は残酷だ』というものです。
美しく花咲く場所をのぞいてみれば、昆虫が昆虫を喰らう世界。家族を愛する父親が狩りから戻ってきたときに手にしているのは、その日の食料となるであろう鳥の死体。現実の世界でも、少女ミカサの観ている世界と同じものを、実際に子供のころから見てきたという人はいるのではないでしょうか。
このような世界観は、エニアグラムの9つのタイプのなかでは、タイプ5の世界観と通じるものがあります。タイプ5にとって、またわたしたちの内なるタイプ5的側面において、世界は圧倒的で残酷なものと受け止められる。
『進撃の巨人』のファーストシーズンでは、この世界は喰う者がいて、喰われる者がいる。壁の中の人類は、巨大で圧倒的な力を持つ巨人の前になすすべもなく、次々と喰われていく……。“人類”の無力さが描かれています。
人は根源的な恐れを持ち、その恐れがあるために何らかの欲求が生じると考えられています。根源的な恐れとは死への恐れです。外の世界が圧倒的な力で迫ってきたとき、私たちは自分が無力であることを知り、生きていけないと思う。
『進撃の巨人』では少年エレンたちが置かれている状況は、外の世界が圧倒的な力を持つ巨人に囲まれているらしいということ、しかしその巨人の正体を知らないということです。無力であると同時に無知なのです。
無力であると生きていけない。
タイプ5の根源的恐れは、無知無能であるということです。が、「無能」というよりは「無力」と言った方がより的確だと思います。わたしたちはこの世界において無力だと生きていけません。無知であることが無力でもあるのです。
わたしたちの内なるタイプ5は、自分が無力であることを恐れています。では、無力であるところから逃れるにはどうすればいいのか?
タイプ5は、知ろうとするわけです。
『進撃の巨人』では、少年エレンは知りたいと思う。外の世界がどうなっているのか。真実を知りたいと思います。だから、少年エレンは調査兵団に入隊します。
真実を知ることで、自分たちを脅かすものに立ち向かっていける------。
タイプ5における根源的欲求は「知的に有能であろうとする」ことです。
アニメ作品から離れて、人類の歴史を振りかえってみても、人類はこのタイプ5的恐れから、知性を発達させてきたともいえるでしょう。
人が外の脅威に脅かされながら、壁に囲まれた世界で真実を知らずに生きているというのは、メタファーとして用いるにはあまりにわかりやす過ぎるかもしれません。
「世界が残酷である」ことを知っている子供
子供のころに、人が生き物を殺して食べていることを知ったとき、ショックを受けた人もいるかもしれません。それで、肉や魚が食べられなくなったことのある人もいるかもしれません。
タイプ5に限らず、子供は世界が残酷であるということに、ある時気づくのです。そして、そのような世界を、生きていかねばならないわけです。
この残酷な世界をどう生きるか。
アニメのキャッチフレーズをもじってみると、
コロナ禍で、“人類”は思い出した。この世界は残酷だったと!
これまで私たちは大きな震災やその他の自然災害を経験してきました。自然の圧倒的な力を目の当たりにしてきました。けれども、それは目に見えるものだったし、人類全体を覆いつくすものではありませんでした。
ところが、コロナウイルスは目に見えません。全世界に蔓延しています。死者も出ています。明日には自分や自分の家族が死ぬかもしれない。見えないウイルスに対して、死への恐れが可視的になってきたように思えます。
いまの私たちは無知ではない(でしょう)。無知ではないかもしれませんが、果たして真実を知ろうとしているだろうか? どうでしょうか?
コロナ後、フェイクニュースや陰謀論を真に受ける人が大勢出てきました。ネット上の情報も錯そうし、差別的は発言やヘイトスピーチも横行しています。“スピリチュアル”を語るカルト集団の儀式のようなものにハマってしまう人もいます。
なかには、確信犯的にそういうことをやっている人もいるかもしれませんが、その一方で簡単に出どころが明らかでない情報を信じ込んでしまっている人もいるようです。
ネット検索して、情報が得られなければ、日本語ではなく英語でググってみるとか、調べようとすれば思い込んでいた情報とは異なる情報に行き当たることもあります。
知ろうとすれば、調べるでしょう。それが、いったい何なのか? 何を意味しているのか?
調べてもわからなければ、調べ方について考えるでしょう。思考には粘り強さが必要です。
知るということはそう簡単なことではありません。情報を集め、偏りなく集め、物事を観察し、あらゆる可能性について思いを巡らせ、頭の中の思考をフルに使って考えなければなりません。しかし、ともすると、私たちは自分で考えるということを怠けてしまいがちです。
思考を働かせば、仮定でものを考えることができるようにもなり、姿勢は可能性に開かれてゆきます。余談ですが、「仮定での話はできない」とか「たらればの話はしてもしょうがない」などという人は、はなっから考えるということを放棄しているかのようです。
しっかり考えようとすれば、エネルギーがいります。脳はエネルギーを消費します。
そして、知るということは、世界に戦いを挑むことでもあるわけです。生き残るための知的な戦いです。
『進撃の巨人』にはエニアグラム的に見てタイプ5の内的世界を表す特徴がたくさん見て取れます。立体起動装置で飛ぶというのも、その一つでしょう。巨大なものに挑むには、俯瞰した見方ができなければなりません。
タイプ5的視野は俯瞰した見方をも含みます。深く志向の中に潜っていく方向と、自らをも含めた世界を超越したところから眺めることになります。
そして、私たちはタイプ5的視野を持っていれば、真実を知ることを恐れない!はずです。
タイプ5の自我について-
『進撃の巨人』における巨人は、エニアグラム的にはタイプ5にとって、頭の中に流れ込む激しいエネルギーであり、情熱であると解釈することもできます。外界は自らを圧倒するものに感じられても、内なる世界には巨人がいるのかもしれません。
そのエネルギーは、いったい何を生み出すのでしょうか?
残酷なこの世界に、「愛」はないのか?
まず、“残酷なこの世界”にも、美があることは、比較的容易に受け入れられそうです。生き物が殺し合っているところでも、花は美しく咲き乱れ、人々の醜い争いの上にも、美しい青空が広がり、太陽の光が地上を照らし、緑の木々が風に揺れ、小鳥たちが飛びかい、青い海が広がり、夜には月が昇り、星が輝く。そういったものに美しさを一度も感じなかったという人がいるでしょうか?
では、「愛」はどうなのでしょうか?
「愛」といえば、わたしたちはともするとそれを感情的なものと受け止めてしまいがちです。何かしら、特定の人物やときにはモノに対しても、いつくしむ気持ちであるとか、親密な感情であるとか、他者の幸福を願う気持ちとか。そんなふうに、愛を感情的な何かと受け止めてしまうと、自分に愛があるかどうか、疑わしく思ってしまう人もいるでしょう。
しかし、古代から人は「知を愛する」ということもありました。フィロソフィー。知への愛。ここでは知と愛は一つであり矛盾するものではありません。
タイプ5的な世界にもどってみましょう。この世界に愛はないのでしょうか?
そこには知ることへの愛があり、知が愛そのものであるのではないですか。
一者の流出説を説いた新プラトン派のプロティーノスは、一者(一にして全なる者)に続くものとして「知性」を置きます。「魂」は知性より下位に置かれます。魂は知性から生まれると考えるのです。
筆者のイメージでは、知性のない魂は化け物のように感じられます。
プロティーノスの思想を広げて考えてみれば、「知性」は「愛」をも含むことになります。だから、私たちは知と愛とを対立するものと考えるべきではないのです。
もし、タイプ5的な資質を持つ人が、自分のなかに愛はないと感じるとすれば、それは愛についての定義が間違っているのではないかと、検討してみる必要があるのではないでしょうか。
知性の純粋さの中に、愛が見えませんか?
その残酷な世界に愛がないといえるのか?
『進撃の巨人』はダークファンタジーの部類に入り、ファイナルシーズンはさらに軍事もの、戦記物のような世界観になってきています。とてもスケールの大きい物語です。エロス的なからみの少ない、というか、ほとんどない物語で、登場人物の感情表現を怒りは別として、比較的抑制されています。
しかし、そういった表現の中にも、漫画やアニメのファンはそこに愛があることを感じ取っていることでしょう。
翻って、エニアタイプ5の世界において、またわたしたちの内なるタイプ5的世界において、そこに愛を見出すことは可能かどうか?
筆者の回答はすでに上に述べてあります。が、付け加えると、
真実を知るために、この残酷な世界に立ち向かうことは、思考を駆使することのできる人にとって、それは愛の発動といえるのではないでしょうか?
したがって、自らの外に愛を見出す必要はないのではないか。自分にはない、他のタイプのなかに愛を見出し、その愛を取り込もうとする必要はないのではないか、と思うわけです。