2020年9月23日(水)
根源的恐れとアダムとイヴ楽園追放の物語
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アダムとイヴはなぜ

善悪の木の実を食べては
いけなかったのか?


 旧約聖書創世記に記されているアダムとイヴの物語から、なぜ彼らが楽園から追放されることになったのかを考えてみました。

 創世記第に記されている話はこうです。
 神はアダムをお作りになったあと、人が一人でいるのはよくないと考え、アダムのあばら骨を取ってイヴを作りました。アダムとイヴは、エデンの園で何不自由なく暮らしていました。

エデンの園にはたくさんの果実が植わっていました。彼らはどれを取って食べてもよいことになっていました。けれども、園の中央に植わっている善悪を知る木の実だけは食べてはいけない、食べると必ず死んでしまうと言われていました。

 あるとき、蛇がイヴに言いました。「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものになる」と。イヴは誘惑に負け、善悪の木の実を取って食べ、一緒にいたアダムにも渡したので、アダムも木の実を食べてしまいます。

 二人が禁断の木の実を食べたことを知った神は、アダムとイヴを楽園から追放しました。その後、人間は死すべきものとなり、一生苦労を背負うことになったというわけです。

善悪を知る木の実とは何だったのか?

 禁断の果実は、善悪を知る木の実でした。蛇が言っているように、「それを食べると神のように善悪を知るものになる」ということです。

 善悪を知るようになることが、どうして楽園を追放されるほどのことなのでしょうか? 善悪を知るようになれば、分別がつくし、物事の正しさを認識し、間違ったことをしないようになるのではないか。それはむしろ、いいことなのではないか?そんなふうに思いませんか?

 しかし、蛇が言っています。その実を食べれば、人は「神のように、善悪を知るものになる」と。

 つまり、人は神によって作られたものであるにもかかわらず、自らが神のようになり、善悪を判断するようになるということですね。この微妙な違いは、とても重大な違いです。


善悪を知るということは、自我が自分を絶対視すること

 では、善悪とは何なのか?あなたは、自分は善悪の判断ぐらいできると思っているかもしれません。何がいいことで、何が悪いことかぐらいはわかると。

 自分はつとめて善いことをしようとしているし、悪いことはしていないという人もいるかもしれません。そのときの、あなたが考える善悪とはどういうものでしょうか?

 善いことと言えば、嘘をつかないとか、自分に正直でいるとか、間違ったことはしないとか、人に親切にするとか、ボランティアをしているとか。悪いことと言えば、法律に違反するとか、嘘をつくこととか、人を殴るとか、人のものを盗むとか、決まった人がありながら、浮気をするとか……。

 しかし、ここでは、そういった次元のことを言っているのではなさそうです。

自分を正しい者と見なしたとき、人はどうするか


 自分は正しいと思ったとき、私たちはどうなるでしょうか? 正しくない者、間違いを犯した者を批判し、裁きたくなるかもしれません。自分が人の上に立つことになります。

 自分は正しいことを知っていると思ったとき、私たちはもし自分が間違ったことをしてしまったとき、その自分を責め、裁くことになるかもしれません。

 神に代わって、そうするわけです。それは自分を神と見なすことではありませんか?

これが私たちのパーソナリティ(自己の中の自我的側面)の問題になります。個々人のパーソナリティ(=自我)は完全なものではなく、それぞれに限界づけられているにもかかわらず、自我そのものが完全であるかのようにふるまうのです。

 それは神の目からしたら、自我が神に代わろうとすることであり、それが罪なのではないでしょうか? 罪というのは、わざわざ言うまでもありませんが、クライム、犯罪のことではありません。

楽園追放後、アダムとイヴを待ち受けていたものは?

善悪を知る木の実を食べることによって、楽園から追放された人間を待ち構えていたのは何でしょうか?

それは、恐れですね。死すべきものとなったために、死ぬことへの恐れが生じました。そして、これがすべての人にとっての根源的恐れとなっているわけです。

 全世界に広がったコロナウイルス感染のニュースは、私たちの中の死への恐れをリアルに呼び起こすことになりました。

 ふだん、わたしたちは自分が死すべきものであるということをあまり意識してはいません。自らの死を意識するということは、根源的恐れと向き合うことになります。

 根源的な恐れである死への恐れが、善悪の観念と結びついてくると、「自分は正しくないのではないか」「間違っているのではないか」「自分は悪いものなのではないか」といった恐れとして意識下に横たわることになります。

 より具体的に言えば、こういうことです。例えば、あなたが予期せぬ災害に巻き込まれ、大きな被害を被ったとします。そのとき、あなたはどういうでしょうか?

 「いったい、自分がどんな悪いことをしたっていうんだ?」「何も悪いことなどしていないのに、どうしてこんな目に合わなければいけないの」と。

 そういう嘆きは、正しいことをしていれば、災害や不幸な目には合わないはずという思いがあってこそのものでしょう。それで、自分が悪かったのか、何かが間違っていたのかと思えば、自分を責めることになるでしょう。すると、そこからは罪の意識が生じてくることもあります。


コロナ感染者への誹謗中傷や差別はなぜ起きたのか?

 コロナ感染拡大で、私たちの周りではどんなことが生じたでしょうか? 数か月前のことを思い起こしてみてください。感染者への誹謗中傷や差別、また医療従事者への差別も生じました。

 医療従事者への差別の背景にも、死への恐れがあると思います。コロナ感染者への誹謗中傷や差別の根底には、死への恐れがあり、その恐れに根差してさらに、感染した者は「人間的に悪い」「間違っている」という善悪でとらえ、悪と見なす裁きの心があるのではないでしょうか。

 そういう人が、もし自分がコロナに感染してしまったとしたら、どうでしょうか?自分に感染させた人が特定できたとしたら、状況によってはその人を責めるでしょうか。

 あるいは自分の行動を悔い、自分を責めることになるでしょうか。いずれいせよ、どこかに責めを負うべきものを探してしまうでしょう。

アダムはイヴのせいにし、イヴは蛇のせいにした
 
 さて、アダムとイヴの話に戻ります。善悪を知る木の実を食べた後、二人は神に対して言い訳をします。アダムはイヴが食べろと言った、イヴは蛇にそそのかされたというわけです。どちらも他人のせいにします。自分は悪くないというわけです。 

 ここで、蛇は何かのせいにすることはありません。蛇の正体は言うまでもないと思いますが、悪魔=サタンです。蛇は善悪で迷うことはありません。悪そのものですから、人間のようにぶれることがないのです。

 アダムとイヴの物語から、人は善と悪を併せ持ってしまったことで、善を知りながらも悪への傾きを持つことになったと解釈することもできます。それをパーソナリティのレベル(自我レベル)で処理しようとするのですから、そこにさまざま感情の囚われや思考の歪みが生じるわけです。

 アダムとイヴは善悪を知る木の実を食べた後、自分たちが裸であることを恥ずかしく思い、いちじくの葉で腰を覆いました。神から見られることへの恥の感覚。羞恥心が生じたわけですね。

 わたしたちは時として、自分が自分であるという恥の感覚から抜け出すことができない場合があります。これは神的なものから離れてしまったときの感覚であり、自分自身の本質とのつながりが断たれた時の感覚であるとも言えます。

 エデンの園とは、人が自らの本質とつながっていることのできた場所だと考えることもできます。

私たちの課題が、自らの本質とのつながりを回復することにあります。

 パーソナリティが自らの本質とのつながりを取り戻すことができれば、「自分は正しくないのではないか」「間違っているのではないか」といった恐れを克服でき、自分自身をまるごと受け入れられるようになるでしょう。

 言うほど簡単ではありませんが、これは私たちの内なるタイプ1的側面に働きかけるための内容でもあります。

 自己探求は自らの本質とのつながりを回復することに向かっていきます。

 アダムとイヴの楽園追放の物語は、一見人が神に背くことによって罪を犯す物語のように見えますが、じつは私たちの本質は善きものであるという考え方が根底にあると言えるでしょう。


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