2020年1月11日(土)
人はなぜ「囚われ」から抜け出せないのか?その2
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そもそも、「囚われ」って何?

 エニアグラムでいうところの「囚われ」とは何かということですが、広義の囚われと狭義の囚われを区別してお話ししたいと思います。

 広義の「囚われ」は、性格の囚われという言葉で表す、そのタイプの基本性格をどんどん強めるようなやり方を意味しています。もとより、私たちはそのやり方でこれまでやってきたわけです。それでうまくやってこられたこともたくさんあったでしょう。それぞれのタイプにはそのタイプの持つ強みもあります。

 しかし、どのような性格もある一定の偏りがあり、認知バイアスがかかっているものです。見えていない部分、弱みとなっているものがあります。自らのタイプのやりかたにこだわることは、これまで通りのことをやっているわけですが、エニアグラムを学ぶことによって、ますますそのやり方を続けてしまう、ということがありうるわけです。

 それには弁護の余地もあります。私たちは生まれ育ってきた過程で、自分の持つ性格を丸ごと受け止めてもらえたということはあまりないものです。親や親に代わる養育者、学校やその子を取り巻く周りの環境において、あなたはこういう子だ、ここはいいところだが、こういうところはよくない、こうあるべきだ、なんでいつもそうなんだ、もっとこうしなさい、など、さまざまなことが言われ、刷り込まれてきたはずです。親や教師、そして周りの大人たちもみな、その人自身の囚われがあるわけで、ある特定の価値観から、子供を評価してしまうことになりかねないからです。

 それが、エニアグラムに出会って、自分の性格が「これでいいんだ」「これでよかったのだ」と受け入れてもらえる感じ! ワークショップなどに参加すると、周りの人たちからも受け入れられている感じがするでしょう。エニアグラムで自分の性格タイプを理解すると、自己否定から解放されていきます。それでも、そう簡単に、心理的な葛藤や悩み、自分自身に自信が持てないといったことはあるにせよ、知った後と知る前では、自分に対する受け止め方が違っているでしょう。

 エニアグラムで性格(パーソナリティ)と呼ばれているものは、「本質」(エッセンス)の上に形成されたものだと考えられています。本質の上に自我が形成されてくると言ってもいいでしょう。「本質」とは生まれ持ったもので、賜物(ギフト)と呼ばれるようなものです。こういうところの考え方は、心理学ではあつかえません。「本質」についての話は、スピリチュアルな領域にまたがっています。

 わたしたちの性格は生まれ持った「本質」の上に形作られていく。性格=自我は自分を守るための防衛の形式でもあると言えるでしょう。自我の守りが強ければ強いほど、性格は凝り固まったものになっていくでしょう。幼少期の体験がきわめて過酷なものであれば、自我の健全な発達には困難が伴うことが知られています。

エニアグラムでやろうとしていることは、自らの性格(自我)(構造を理解し、自我にとらわれず、解放の道を歩んでいくことにあります。あるいは、タイプの底を突き抜けて、自らの本質に向かっていこうとする、本質とのつながりを取り戻すことにあります。それは、自己の全体性を回復しようとするプロセスでもあります。

 
 
性格の囚われ、感情の囚われ

 話を元に戻しますが、広義の「囚われ」とは自らのやり方を“いいと思って”やりすぎることだと言ってもいいでしょう。

 たとえば、タイプ2は親切で気働きのできる人ですが、それをやりすぎるとお節介になる。本来長所とされる思いやりが過剰になり相手の領域を侵す。いかにもタイプ2な感じになっていく。たとえば、タイプ3は理想の自己イメージをじっさいに表現できる、人にいい印象を与える、人前で魅力的な自分、有能な自分をアピールできる人ですが、それをやりすぎると、自分をひけらかす人になります。最近の言葉で言えば、“自分盛り”過剰の人といってもいいでしょう。

 タイプ7は明るくポジティブ、誰とでも友達になれる人ですが、その傾向を推し進めていくと、何事もポジティブに受け止め、手当たり次第に人とつながり、その自分をいいものとする、いかにもタイプ7な人になるでしょう。

 いずれにせよ、広義の意味での性格の囚われとは、各タイプの特徴とされる傾向、そのポジティブな面、長所、強みとして記述されているような側面を過剰に行動化するということです。

 たとえば、タイプ4は情緒豊かで繊細な感受性を持つ人です。自分は他の人とは違うという意識があります。それをやりすぎると自分の感情や気分と同一化し、気まぐれな行動をとったり、過剰に芝居がかった言動をすることがあります。自分だけが特別という意識がより前面に出てきやすくなります。

 狭義の「囚われ」とは、感情の囚われ(パッション)と呼ばれるものです。グルジェフが発見した図の上に人間の陥りやすい感情的な傾向を9タイプに分類し、図の上に配置したのはオスカー・イチャーゾの天才的な閃きによるものでした。イチャーソはこの9つのタイプに特徴的な感情的傾向を、パッションという言葉で表しました。パッションとは、それが人間の苦しみのもとになっているような感情のことです。

 パッション、感情的な囚われは、キリスト教の言葉で言えば、「罪の傾向」ということになります。「罪」とはクライムではなく、Sin であり、これは人が神から離れる傾向を意味していました。その中には、怒り、妬み、貪欲、肉欲、怠惰などが含まれます。

 4世紀のキリスト教の教父エヴァグリオス・ポンティコスは、霊的な修行生活を送るものが陥りやすいさまざまな想念について書き表しました。彼はエジプトの砂漠で長年修行を行った人物で、その著書のなかには、キリスト教の罪の傾向といわれるような想念が挙げられています。感情的な囚われはこのような思想とも関連があります。

 各タイプの感情的な囚われは、言葉としては把握しやすく、わかりやすいものです。けれども、自分自身の内に囚われは無意識のうちにそれが働くことがあるので、なかなかに御しがたいものです。非常に根深いものなのです。

 たとえば、タイプ1の感情的な囚われは怒りです。憤怒という言葉が用いられることもあります。タイプ1は怒りに駆られても、怒ってはならないという抑制が働きますが、それによって怒りそのものがなくなるわけではありません。非常に強い怒りが内にこもっていて、それが周囲にもエネルギーとして伝わりますが、自分では「怒っていない」と怒りを否定することがあります。

 このようにパッションは意識的な自我においては否定されることがあります。それはまた見たくないものです。タイプ3のパッションは虚栄ですが、タイプ3の人が虚栄心から自由になるということはなかなか難しいでしょう。無意識のうちに、自分を実際上のものに見せようとしてしまうわけです。

 この「パッション」という言葉で表される人間の陥りやすい感情的傾向のほかに、思考の「囚われ」というものがあります。それは「固着(フィグジェーション)」という言葉で表されます。



 思考の囚われ=固着
 
 各タイプには特有の認知の歪みともいえる歪曲された思考法があります。思考の囚われは、感情的な囚われよりも、もっとわかりにくいものです。理解するのが難しいということです。自らの思考の囚われがどのように働いているかを理解することは、ワークを重ねなければなかなかむずかしいかもしれません。

 比較的わかりやすい例として、感情的な囚われの例にあげたタイプ3について、思考の囚われとはどういうものなのかを説明してみましょう。

 タイプ3の思考の囚われ、固着(フィグジェーション)は欺瞞です。他者を欺くということよりもむしろ、自らを欺く自己欺瞞こそがこのタイプにとっての問題であり、取り組むべき課題であることでしょう。

 けれども、タイプ3の思考の囚われ(固着)は、タイプ3が真の自己と触れ合うことを難しくしているといえないでしょうか。

 タイプ8の思考の囚われは「物化」です。人をモノとしてみなしてしまうということです、自分自身も他者も。人をモノと見なし、モノとして扱うと無慈悲で残酷になりますね。自分自身をも過酷に扱うことになるでしょう。人をモノと見なせば、傍若無人にもなれるわけです。

 タイプ分けは、モノ化に陥りやすい

 モノ化ということの関連で言うと、エニアグラムをたんに人をタイプ分けする道具と見なしている人たちがいまるようです。アメリカでも日本でも同様です。たとえ、エニアグラムはたんに9タイプに分けられるだけではない、ウイングのサブタイプを入れれば性格は18タイプに分類できるとか、本能のバリエーションからみれば、27タイプに分かれると言ったとしても、タイプ分けはやはりタイプ分けであって、タイプ分けにすぎません。

 こういったタイプ分類だけが先行し、webサイトやSNSで自分は何タイプ、誰々は何タイプと語り、有名人著名人のタイプ分けがなされているのをよく目にします。アメリカのセラピスト・トマス・コンドン師もグローバルサミットの中でこのことについて触れています。

 これはタイプについてタイプ分けしているようなやり方で、タイプが次第に抽象化されていくものです。リアリティとはまったくコミットしていない、知的(というほどでもない)遊びです。

 タイプ5の思考の囚われは保持です。情報や知識を得ても、それを記憶するだけで真の知恵にはなっていないということでしょうか。タイプ5の思考法には抽象化ということがありますが、近頃、SNSなどで散見される、エニアタイプをウイングや本能のバリエーションまで細分化し、それをマイヤーズ・ブリックスの16タイプと比較し、並列してみるようなやり方は、タイプを抽象化した見方になってしまっているようです。

 有名人・著名人についてタイプ分けしている人たちもいますが、トムはそのほとんどは、きちんとしたリサーチをしていないことがはっきりわかると言っています。それはスナップジャッジメント、たんなる印象的判断にすぎないものだというのです。

 じっさい、経験豊かなエニアグラム教師でも、他人のタイプはわかりにくいことがあります。また、逆にわかりやすいこともあります。あるときその人のタイプが立ち上がってくるような感じで見えてくることもあります。本人でさえ、自分のタイプが長く自分のタイプがわからない人もいるのです。

 有名人・著名人、映画やドラマの中の人物をタイプ分けしている人の中には、自分がタイプについて理解しているということを示したい、何らかの動機があるはずです。自分のエニアグラムについての見識を誇示したいのかもしれないし、またはタイプ分類することをゲームのように楽しんでいるだけなのかもしれません。人がタイプ分けしたがることの、動機に目を向けてみるといいでしょう。他人のタイプを判定したがる人たちの中にも、その人の何らかの囚われが垣間見えるものです。

 なぜワークが必要なのか

 感情的な囚われからの解放は、本来持っている美徳の現れにつながります。また、思考の囚われは聖なる考えというものにつながっています。それがエニアグラムの教えです。

 しかし、自我レベルでは、感情的な囚われに引きずられ、思考の囚われに歪められ、リアリティに触れることも、真の自己に触れることもできません。

 そこで必要になってくるのが「いまここ」にあることです。なぜ、リソ&ハドソンのエニアグラムで、「今ここ」にいることの重要性が強調されているのかが、自らとつながるために呼吸が大事だとか、瞑想的な時間を持つことが必要だとされるのか、理解できますね。

 感情的な囚われに駆り立てられないよう、思考の囚われのままに、自己や他者、そしてこの世界を解釈しようとしないよう。あるがままの自分、他者、そして今ここにあるこの瞬間の世界を受けとめること。それが大事になってくるでしょう。

 感情的な囚われによって、その囚われに駆り立てられるままに行動せず、思考の囚われによって、その囚われによって歪められた世界をリアリティと見なすようなことをせず、「いまここ」の自分でいることが必要です。

 もしあなたが、「あの人は囚われている」と思ってしまう人がいたら、その人がいかにいまここにいられないかを見てください。また、あなた自身が「囚われている」と感じたら、いまここにいない自分に気づいてください。

 「いまここ」にいるためには、本能・感情・思考の三つのセンターの統合が必要になってきます。けれども、感情の囚われや思考の囚われは、自らのタイプの傾向から、三つのセンターの機能をゆがめてしまっています。

 まずはそこから見直してゆきましょう。

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