2019年8月20日(火)
【覚書】エニアタイプ1 完全主義者
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エニアタイプ1 完全主義者の側面について


 パーソナリティタイプのエニアグラムで、タイプ1とされる性格傾向について

 タイプ1:全さを求める人・改革する人・正義を求める人

 ◆性格のポジテイブな面(長所や強みとなっているところ)
 理想が高く、自分に対する要求水準の高い。真面目で責任感が強く、勤勉。つねに一段高いところにハードルを置き、そのハードルを乗り越えるために一生懸命努力している。社会の秩序を重んじ、良識的で、つねに正しくあろうとする。

 自分に厳しく、禁欲的なところがあり、「やるべきこと」「やらなければならないこと」を優先する。やるべきことは完璧をめざし、いったん手をつけたことは、こつこつと粘り強くやり遂げようとする。手抜きや途中で投げ出すようなことはしたくない。

 正義感が強く、世の中の不正や不平等を許さず、社会を改善していきたいという気持ちが強い。人々を正しい方向に導いていくために、自分から行動を起こすこともある。家族や友人に対して誠実で、情に厚く、古くからの友人を「親友」として大切にする。

 ◆性格のネガテイブな面(短所や弱みとなっているところ)
 物事に完璧を求めるため、現状に不満を抱きやすい。自分のしたことについては、あれでよかったかどうかと後悔したり、過去のことを何度も掘り返す。自分に対する要求水準が高すぎ、こんなこともできないのかと、自己嫌悪に陥ることもある。

 仕事や作業は、完璧にやり遂げようとするあまり、適当なところで切り上げることができない。細部にこだわりすぎたり、いつまでも抱え込んでいたり、期限に遅れてしまうこともありうる。自分に厳しい以上に他人に厳しい面がある。人の欠点をあげつらい、間違いを指摘して、裁判官のように他人を裁く。

 自分に対するこだわりが強く、頑固で融通のきかない面がある。他人の気持ちには鈍感で、原理原則を優先しがち。柔軟な対応ができにくい。欲求不満に陥りやすく、腹の中に怒りを溜め込み、イライラしやすい。

<対人関係の問題点>
 通常、他人に対して批判的で自分自身も余裕がない。相手を批判し、文句を言いながら関わろうとする。相手にもフラストレーションを与える。タイプ1との関わりは、他者にとっては非常にストレスフルなものにもなる場合がある。
              
 エニアタイプ1の価値観や生活習慣は社会的な基盤に応じるものであり、その性格の持つとらわれが適応を促すことになる。

 たとえば、タイプ1のなかには、よく誤字脱字が目につき、いったんそれに気づいたら直さずにはいられないという人がいる。自己保存的なタイプ1だと、ごみ収集のルールにうるさく近隣の住人のいい加減さにいらだちながら、達筆の張り紙をするかもしれない。

 時間を守り、約束は守るべきだという信念を持っている人もいるだろう。遅れてくる人を「けしからん」と怒る男性もいる。「約束を守る」のは人として当然のことだ! それはタイプ1でなくても、多くの人の常識だ。けれども、タイプ1はそういったことにとくに厳しい。

 完全主義者の特徴の一つは“非寛容”であるという点にある。

 完璧主義者の頭の中には、この世界の完璧な見取り図があるらしい。それはあるべきものがあるべき場所に位置しているモノクロ写真のようなもの(トム・コンドン)かもしれない。そして、その見取り図のように、この世界はあるべきなのだ!

 完全主義者のこだわりは、人によって違い、さまざまな面に表れる。皆同じであるわけではない。本人の生育環境や体力・知的レベルその他によって違ってくるのは当然のことだ。それはどのタイプにも言える(わたしたちは個人のことを話題にしているのではなく、タイプについて語っているということを忘れたくない)。

 完全主義者の中には、靴がそろえられていない、家の中がきちんとしていない、家事全般に関することに完璧を求める人もいれば、より人としての倫理的道徳的な信念や行動に関心が向かっている人もいるだろ。

 環境・教育・男女平等、世界平和について、理想の社会をめざす完璧主義者もいる。完全主義者の中には社会を改革していきたいという動機に駆られる人もいる。それは社会的な貢献となることもあるだろう。

 感情的なとらわれ(Passion)は怒り

 完全主義者の内面には“怒り”がある。その怒りを完全主義者は抑圧しようとする。しかし、怒りというものは腹の底から湧き上るものであり、生理的に立ち上がってくるものなので、それを完全に抑圧するということはできない。
 「腹が立つ」という日本語は“怒り”について言いえて妙だ。内臓がむかむかするのだ。「受け入れがたい」ということを身体が表現する。その一方で、完全主義者は「怒ってはならない」と思い、自らの怒りを抑圧しようとする。怒るのは善いことではない! そこで、怒りを抑えようとするのだが、エニアタイプ1は本能センター(ガッツセンター)のタイプであり、身体的なエネルギーで自らの怒りを抑えようとするので、それによって身体に緊張が生まれる。

 怒りは解き放たれたわけではなく、ただ抑圧されているだけなので、腹の底の怒りは火山ガスのように立ち上る。周囲には「ぴりぴり」とした雰囲気が伝わる。

 完全主義者は場の雰囲気を緊張へと導く。たとえば、オフィスに完全主義者がいたらみながリラックスしてわきあいあいとしていたミーティングルームに、このタイプの人が現れると空気がすっと凍りついたようになるということがある。これまでの和やかな雰囲気に緊張が走る。とりわけ上下関係があり、このタイプが上司、教官、指導者であるとき、場はピリピリした雰囲気になる。

 ところで、完全主義者の几帳面さ、物事へのこだわりは、神経質さをあらわすものと勘違いされるかもしれないが、このタイプは頭脳型のような神経質さを持ち合わせているわけではない。エニアタイプ1はクレッチマーの、”分裂気質”とされていた、やせ型に当てはまるのではなく、”粘着気質”とされる”闘士型”にあてはまる身体型の人間と見なしていい。

 完全主義的傾向の強い人に、自分の体を絵に描いてもらうと、胃腸のあたりが赤く塗られるなど、内臓感覚があることが共通してみられる。「はらわたが煮えくり返る」という言葉があるが、まさにはらわたの熱を帯びた存在感が感じられる。

 完全主義者は意志が強い。コツコツと粘り強く物事をやり遂げようとする。完璧を目指すなら、そうする他ないだろう。そこで、「しつこい」という性格が一つの性格特徴として出てくる。

 完全主義者は超自我が発達したタイプである。自我は意識化された部分もあれば、潜在意識的な部分から、無意識的な領域まで広がっている。超自我は意識を超えた部分であり、それは潜在意識・無意識にまたがっていると考えられる(エニアタイプの心理構造についてはリソ&ハドソンの研究が詳しい)。

 超自我は意識にまたがる部分に関しては、自分を監視するもう一人の自分のような形で立ち現れる。それは内なる声のようなものだ。
 
 完全主義的傾向の強い人は、この超自我の声が強く、「すべき」「すべきでない」という命令と禁止によって縛られている。怒りは「面に表すべきものではない」のであり、「感情的になってはならない」「怒ってはならない」という内なる声がある。

 そういった内なる声に従おうとすれば、怒りは抑圧されることになる。繰り返しになるが、そこに、身体的な緊張が生じるのだ。肩こり、腰痛なども実際に起こりうる。

 完全主義傾向の強い人には独特の体の堅さ、硬そうな感じが見られる。すなわち、しなやかさに欠けている。もっとも、何らかの運動や体操、舞踏、ヨガなどを行っている場合はその限りではない。

 歯の食いしばりも強い。誰でも、ストレスに耐えようとするとき、ぐっと我慢するとき、歯の食いしばりが強くなることがある。
 


 完全主義者の思考法

 ユングの外向・内向タイプでいえば、完全主義者は外向的思考タイプの記述に近いものがある。関心は外の世界に向かい、感情を交えずに合理的な判断を下そうとする。ただ、内なる声に従うというところでは、外向型と言ってしまえないところがある。

 完全主義者の思考は論理的なプロセスをたどる頭脳型の思考ではない。

 ここで、思考というものの本質についてとらえておきたい。思考とは論理的推論のプロセスであり、思考の枠組みの中に構成されるのが概念である。純粋な思考型のタイプは抽象化を行う。抽象的に考える。思考のプロセスを明け渡すと、そこに閃きが生じることもある。

 完全主義者は抽象的なことを考えているのではない。関心は外の世界の事象や人に向かっている。とりわけ、ウイング2のタイプ1について言えば、社会の他者との関係に関心が強い。

 また、基準(スタンダード)やこうあるべき理想を重んじる。それは論理的な推論のプロセスをたどって出てきたものというよりは、信念や信条であることが多い。

 完全主義者のもつ「こうあるべき」「こうすべき」というのは信念であり、オープンな思考とはいいがたい。(別にそれがいいとか悪いとかという話ではない)

 完全主義者には、思考型のエニアタイプ5のように「なぜ?」という問いはあまりない。完全主義者には、”自分は正しいことを知っている”という意識がある。

 思考は論理のプロセスをたどるのであり、仮定によって推論される道筋が違ってくるということがありうる。純粋な思考タイプの思考は、完全主義者の”思考”よりも、はるかにフレキシブルであるともいえるのだ。目的地を固定せず、迷路のような筋道をたどり、関連を見つけて行く。思考型は仮説を立てる。

 一般に、意見・信念を持つタイプの人のポジティブな傾向としては、良識的であるという点がある。ネガティブな傾向としては、「押しつけがましさ」「頑固さ」があげられる。

 完全主義者は、自分は変わらないが、他者を変えようとする。完全主義者の主義主張や信念を他者が変えるのは並大抵のことではない。
 
 完全主義者はあらゆることにおいて、完ぺきであろうとしているわけではない。自我の意識の及ぶ範囲、本人が関心を向けているところに完全主義の本領が発揮される。

 以前、筆者の心理テスト本にイラストレーターの伊藤ハムスターさんが書いてくれたイラストに、草むしりをしている女の子が、一本の草も残らないように草むしりをしているが、全体からみるとそれは一区画にすぎないというのがある。

「もっと全体をやりましょうね」という他のキャラクターによるアドバイスがついているのだが、まさに、このように完全主義者は自らの関心が及ぶ範囲について、徹底的に、完ぺきを目指そうとする。それは場合によっては、ユーモラスなこのイラストのように滑稽味を帯びてもくるのだ。

 ある主婦はイライラするほど台所のシンクやドアノブに磨きをかけたくなるのだそうだ。イライラすると、片づけが始まり、ピカピカになるまで磨き上げる。そういうところからすると、完全主義者の行動の底にある動機には欲求不満の匂いがする。

 何かが満たされていない。欲求不満を解消するために自分でそれを満たそうとする。

 誤字脱字を直さずにはいられないという人がいる。他人の言い間違いにも黙ってはいられない。訂正せずにはいられない。自分の見取り図の中で完ぺきではないところを見ると我慢がならなくなる。

 エニアタイプ1は完全主義者と呼ばれるほか、改革者と名付けている場合もある。その呼び名はとくに社会をよりよい方向に改善していきたいという欲求を表している。

 しかし、改革者は革新的な人(イノベーター)ではない。完璧な見取り図というものは固定している。すでにある青写真だ。そこからは動かないのであり、フレキシビリティに欠けている。

 完全主義者は保守的であると言えないだろうか。一般に斬新なアイデアはこのタイプの人からは出にくいかもしれない。

 抑圧と思いこみ

 完全主義者は、幼いころから「これはいいこと」「これはいけないこと」の区別があり、自分を律してきたのかもしれない。そのため、本来の感情に目を向けず、感情は未熟なままに取り残され、他者の感情を受け止めることも、未熟なままの感情機能においては難しくなっている場合がある。

 たとえば、祭りの日に、子供たちが大勢繰り出し、露店の駄菓子を買い求めているのを眺めている子供が一人。その子は「そんなものは買ってはいけない」「食べてはいけない」という親の言いつけを守っている。そういった食べ物は黴菌がついているかもしれず不潔であり、安い駄菓子に使われている着色料や甘味料は健康によくない。虫歯になるかもしれない。決まった時間以外におやつを食べるのもよくない…。子供はその言いつけを守る。

 しかし、どうだろう、子供の中にはそういうものを食べてみたいという欲求がある。その欲求を懸命に抑えている。だから、露店の食べ物を買って食べている他の子どもたちを羨望の目で見ている。大人になってからも、自由に生きる人を、いささか奔放な生き方をしている人たちを見るまなざしに、これと同じような羨望を感じることもあるのではないだろうか。 

 完全主義者のある種大人びた振る舞いの中に、時折、こういった幼稚な反応を見ることがある。”羨望””とは自分はもっていないよいものを他者が持っている、経験していることをうらやむこと。おそらく、彼らはその羨望すらも抑圧しようとする。

 欲望に打ち勝つことが大事だ。完全主義者にとって欲望に打ち勝つことは、自らを律することになり、それは人としての正しい生き方である。

「自分は正しい」という信念はいったいどこからくるのだろうか。完全主義者はまるで、アプリオリに「自分は正しい」者として存在しているようだ。しかしそれは別の言葉でいえば、一方では、というのは、パーソナリティの面では、性格の「思い込み」であると言える。

 自らの欲求に従うことができず、欲求を抑えることにより「ねばならない」「してはならない」の声に従うと、それによって抑えられた欲求は圧がまし、欲求不満が内面で高まっていく。ある時、マグマのようにその欲求不満が抑えきれなくなって吹き出すことはないのだろうか。

 完全主義者が、爆発的な怒りを見せることはないわけではない。周りの人間は、ときに逆鱗に触れたような怒りに出会わなければならない羽目になることもあるかもしれない。しかし、それよりもむしろ、岩の裂け目から吹き出す火山ガスのように、間歇的に立ち上るイライラした雰囲気、”不機嫌”を感じさせられる。

 欲求不満は高じると、抑うつ的な気分を生む。完全主義者は自らにおいても完全であることを要求する。しかし、完全な人間になることは不可能だ。彼が思うような完全さには至らない。そこで、自らの至らなさに目が行くことになる。「自己批判」はこういった完全主義的傾向に人に生み出された言葉なのかもしれない。内なる自分に向けて批判の目を向けることになる。自分で自分を批判し、ときに自分に対しても「許せない」と言う気持ちになる。

 「許す」「許さない」と言うのも完全主義的傾向の強い人とって大きな課題となるものかもしれない。人は許したり、許されなかったりするものだという前提に立っている。

 自らの内面に向けて圧がかかると、それは至らなかった自分に対する「自責の念」となり、自分を責め、後悔が始まる。「あのとき、ああしていたらい」「こうしていたら」と反省は過去へとさかのぼる。

 過去はもとより取り戻せないものだ。が、過去を蒸し返す。そこに、抑うつの根がある。完全主義者は抑うつ的になりうる。

 完全主義者の対人関係の面での特徴について

 とりわけ、その困難な部分についてだが、完全主義者は対人関係においても欲求不満を抱え込みやすい。他者は完璧な人間ではありえず、たとえ愛する人であっても、欠点が目についてしまう。

 大体において、完全主義者は物事の欠けた部分に目がいきやすいわけであるから、周りの人間に対しても同様な見方をしてしまっている。

 その傾向は、二つの特徴となって現れる。まず、このタイプの人は他人をほめない。筆者がある男性から実際に聞いた言葉では「人は褒めるとつけあがる」「調子に乗る」というのだ。自分の妻に対しても、友人が「彼女のことをほめてあげればいいのに」と言った時に、「つけあがるから」という答えを返したそうだ。この男性の父親もまた完全主義者であった。おそらくは、父親がつねに息子に対して言ってきたことを、彼も受け継いだろうだろう。「人はほめたらつけあがる」というのは、たんなる思いこみにすぎないのだが、それが信念のようになってしまっていた。

 ほめないだけなら、対人関係はそれほどまずくはならないかもしれない。このタイプの人の中には、どんなことでも言い合えるのが友人だと思っていることがあり、批判的な物言いをすることがある。友人ならお互いの性格を分かっているのでそれでもいいかもしれないが、より問題が生じるのは、それほど親しくない相手に対しても、関わろうとするために文句を言いながら近づいていく傾向があるということだ。

 人との関わり方において、ネガティブなことを表現する。そのこと自体が問題なのではなく、自分自身が常に他者との関係において、完全ならざる他者に向かって、他者の至らないところを指摘するようなことをするところにある。自分自身が欲求不満を感じていると、その欲求不満を他者に植え付けることになる。

 肯定的な文脈で他者と関わり、そこに橋渡しをしておいてから、人に注意をしたりクレームをつけるのではなく、初めから注意し、クレームをつけると言ったやり方をする。たとえば、会社で、○○さん、と呼ぶとすぐ、書類の問題点を指摘することから始めたり、そこ散らかっているから、片づけてというよな。

 とりわけ、几帳面な完全主義者は(完全主義者はたいてい自らがこだわりを見せる面においては几帳面だが)、何にもっともこだわっているかによって、そのエネルギーがどこに向けられるかは違ってくる。

 たとえば、玄関先で靴を揃える。自分は常にそれをやってきた。他人が脱いだままの靴を見るときになる。そして、揃えずにはいられない。すぐにやってしまう。靴を脱いだら、このように並べておくべきだというのがあり、そうすることに例外は許されない。それが習い性となり、他人が脱いだ靴までつい、揃えてしまう。

 靴を揃えるようなことであれば、それはよきマナーでもあるのだが、度が過ぎるときが問題だ。完璧主義者の日常生活でのこだわりは、部屋の中をきれいにする、鍵は置くべき場所に置く、ドアは開けたらきちんと閉めるといったことであれば、生活の基本であり、見習うべき要素を備えている。しかし、それがゆきすぎると、周りは辛くなってくるだろう。

 髪の毛一本落ちていることに耐えられない夫であれば、妻は同様に完璧主義でなければ家事が苦痛以外の何物でもなくなるかもしれない。妻が完全主義であれば、家の中はきれいになっていても、夫や子供にはくつろげない雰囲気が生まれるかもしれない。

 どこまでそのことにこだわるか。程度の問題がある。自分自身のこだわりからみて、「至らない」人間を、このタイプの人はたんに「至らない」とみなすだけではなく、人格の欠陥でもあるかのようにみなすところに、この完全主義者の尊大さ、傲慢さが見て取れる。

 完全主義者自身が無意識のうちにやっていること、あるいはむしろ良かれと思ってやってきたことのうちに、周囲の人間との軋轢や摩擦を生む原因が潜んでいるかもしれない。愛する家族や友人、恋人・パートナーが自分から離れていく原因を作ったのは完全主義者自身かもしれない。周りの人についてはどうだろう?どんなことを言っているか。

 不平不満を言いながら、人に近づくと、近づかれた人はどうだろう。もろ手を挙げて歓迎するものだろうか。むしろ、かすかに眉をひそめ、引き下がろうとするのではないだろうか。近寄られたくない、関わりたくないという思いが相手の胸をかすめるのではないか。完全主義者自身は相手と良い関係を結びたいと思っていたとしても、その真意はうまく伝わらないかもしれない。

 家庭で厳格な父親、教師、口うるさい隣人、正論をかざすジャーナリスト…・

 このタイプの正義感の強い人は、正義感を表明するときにも欲求不満の様相を抱えている。彼らの訴えは正しいかもしれない。いや正しいだろう。それは正論だ。しかし、聞いている者は、こころからその正論に賛成したいと思わない。なぜか。

 ミンデルはある本のなかで言及していた女性闘士の例。彼女は人々の前で世界平和を訴えている。言っていることは素晴らしい。理想的だ。非の打ちどころのない演説。しかし、なぜか共感を持てない。彼女の話し方が怒気を含んだものになっているからだ。彼女が訴える理想や愛と平和は、彼女から発せられる厳しい糾弾の口調に打ち消されてしまう。

 ある結婚式のパーティで。アジアで活躍する若いカメラマンやジャーナリストが多かった。そこで、ある女性が乾杯の音頭をとったのだが、「いまこのときにも飢えた人がいて」と言い始めた。パーティの装いをしていった若い女性たちは、まるで自分たちが非難されているように聞こえたという。

 完全主義者に難しいこと。それはいまこのときを、人生を楽しむということだ。自分自身がそうであるから、周りの人間も完全主義者と一緒だとこころから楽しめないかもしれない。

 完全主義者はハートとのつながりを失ってしまう。「ねばならない」「こうあるべき」という基準にとらわれ、自分自身の内面の欲求を抑圧する。そして、感情的になってはならないと思う。それが習慣となって、本当の感情を見ない。他者の感情を受け止めることができない。エニアタイプ1は感情センター(ハートセンター)のエニアタイプ2と隣り合っているにもかかわらず。

 エニアタイプ1の完全主義者のなかには体重のコントロールのために、ダイエットを行う人がいる。それも、カロリーを制限する厳格なダイエットだったりする。しかし、本来、本能的な欲求は人一倍強いタイプだと考えてよい。そこで、「理性」と「本能」の戦いとなり、そのことにばかり執着することにもなりうる。食べてはいけないと思いながら、食欲を抑えられない。抑えるとその反動が来る。

 



 完全主義者 パリサイ派の人びと

 完全主義者の頭の中にある超自我がくだす命令や禁止は、他者にまでも及ぶ。それは自分の基準を他者にも当てはめようとするものだ。そこから人をジャッジするということになる。しかし、自分は裁かれないものという認識でいるのだから、その目線は非常に高いところにある。

 完全主義者の思い上がりについては、聖書の中のパリサイ派、またパリサイ人として描写される人々の内に見て取れる。自らは律法を守り、神の前に正しい行いをしている。自らを”義”とする者であるが、イエスはそのパリサイ人に強い批判の目を向けている。それによってイエスはパリサイ人から憎まれることになる。

 完全主義者の正しさとは倫理道徳的な規範に従っていること。おおむねその時代のその社会の道徳規範に一致する。パリサイ人の行いはたしかに当時の社会において、神に仕え神の前で正しい行いとみなされていた。

 パリサイ人は、自分たちが罪人のようではないことに感謝する。当時、ローマの手先となり、同胞から税金を取り立てた取税人はもっとも忌み嫌われる存在だった。また、貧しさゆえに、人々が忌み嫌う仕事につき、ただただ生きるために身を売る女性もいたし、逃亡奴隷などもいた。パリサイ人は自分たちがそのような「罪びと」でないことに感謝するのだが、イエスは独特の譬えを用いて、彼らのおごりを糾弾するのだ。

 現代でも、私たちの内なる完全主義者の側面は、自分を正しい者とし、正しくない者にたいして「当然の罰が与えられるべきだ」という考え方がある。だから、人は自分が何か理不尽な災難にあったとき「何も悪いことをしていないのに、どうしてこんなことが」と、それまでは思い出しもしなかった神や仏を呪うことがある。

 余談になったが、一般社会では完全主義者の正しさは、世の中の正しさとして通用することが多い。彼らはその時代、その国の規範にしがたい、それが正しいと思われない時には改革を目指す。改革・改善は、すでにあるものを認めているうえになりたつものであって、まったく新しいものを作り上げるということではない。

 先にモノクロ写真のような見取り図と言ったが、完全主義者の正義感は正しいか正しくないかの二者択一であり、そこにグレーゾーンは存在しない。自分は何が正しいことを知っている、何が間違っているか、善悪正邪の観念が発達し、自分はそれを知っているという感覚が、アプリオリにこのタイプのなかにはある。

 「正しいことを知っている」という感覚は、完全主義者の健全度が高ければ、それは本質からくるものかもしれない。アプリオリに知っているというのは、そういうことだ。つまり、聖なる完全さ。

 それはエニアタイプ1の個人の健全度が高ければ、じっさいにそうなのだろう。ここでいう健全度が高いとは、意識レベルが高いというか、意識化されているところが広いというか、自我のとらわれからより解放されているということ。健全度が低ければ、意識レベルが低いというかより自我のとらわれが強くなっているので、心理的、あるいは精神的な視野が狭い状態にある。

 感情的なとらわれである怒り(それはふつふつと湧き上がる、憤怒とよばれる怒り)であり、その怒りは地に足の着いた落ち着きにとってかわられなければならない。それがエニアタイプ1における美徳と呼ばれるものだ。

 聖なる完全さ

 そして、エニアタイイプ1の思考は聖なる完全性へと明け渡される。より高次の思考である。

 タイプ論をサイコ・スピリチュアルな次元にまで引き上げれば、完全主義者と呼ばれるようなこのタイプの本質には、本来そういった正義についての知恵が宿っているともいえる。

 
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