2018年11月11日(日)
エニアグラムをめぐる随想 その7 「出る杭は打たれる」
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人間的な、あまりに人間的な!


 日本で初めてエニアグラムに関する書籍の翻訳が出たのは1987年のこと。、『エニアグラム入門』(P.H.オリアリー、M.ビーシング、R.J.ノゴセック著/ 堀口委希子・鈴木秀子訳)春秋社。

 原書は"the enneagram a journey of self discovery"です。この本はイエズス会士による著書で、カトリックグループのエニアグラム解釈の特徴がよく表れています。イエズス会では、エニアグラムが霊的黙想指導に用いられていたのです。

 上記の本の翻訳の初版には、トランスパーソナル心理学を日本に紹介した草分け的存在である吉福伸逸氏の解説が載っています。改訂版ではどういうわけか、その解説が載っていませんが、それは残念なことです。吉福氏は現在、米国エニアグラム研究所の日本支部が置かれているC+F研究所の創設者です。

 1997年に鈴木秀子氏の『9つの性格』がベストセラーになったことで、エニアグラムは日本でも一般に知られるようになり、当時筆者が所属していた団体にも、多くの人がワークショップに参加するようになりました。

 当時、リソ&ハドソン両師を日本に招聘していたのは、当時筆者が所属していた団体です。筆者はその年、団体の理事を務めていて、主に広報を担当していました。筆者は、そのころ、事務局の煩雑な仕事を一気に引き受けていた先輩のエニアグラムファシリテーターで理事でもあった先輩のGさんと、その団体主催の勉強会を企画したり、雑誌の取材などの対応をしていました。

 リソ&ハドソンの宿泊セミナーが終わったのち、その団体へのセミナー参加者は急激に増え、当時市ヶ谷にあった事務局のそれほど広くもない会場に多くの人が詰めかけるようになりました。

 そのころから、筆者はある種の風向きの変化を感じ取っていました。何らか、水面下の動きがあり、筆者と先輩のGさんに対する当時の会長による風当たりが強くなってきました。

 そして、すでに理事を退きファシリテーター部会という会を作っておられた大先輩の女性と男性のお二人が、理事会に乗り込んでこられるようになりました。

 先輩女性の方は、宿泊ワークでの分かち合いの夜以降、それまでの親しい態度とは打って変わって、筆者を無視するようになった女性です。その方はファシリテーターとしては、「ベテラン」とみなされていた方です。

 先輩男性の方は、以前、エニアグラムの来歴についての勉強会を行ったときに、「イチャーソまでしか遡れないんだ」と強い口調で言われ、場の雰囲気を凍り付かせた方でした。

 男性の方は、鈴木氏のベストセラーの中の文章をその団体で発行した本の剽窃だとし、著作権違反にあたると、その本のいたるところをマーカーでチェック、付箋をつけていました。それはその方の主張にしかすぎなので、当時の理事会では動いていません。それについて、その方がじっさいに鈴木氏にクレームをつけたのかどうか、その後のことを筆者は知りません。

 そのとき、その方のクレームの矛先は筆者自身にも向けられそうになっていました。筆者がエニアグラムについての本を出版していたことを、その方は暗に著作権違反にひっかかると言われたのです。が、その方の言葉は先輩女性にによって押しとどめられました。

 彼女はご自分がすでに何冊かエニアグラムに関する本をお書きになっていたうえ、筆者にも「あなた、ものかきから、どんどんお書きなさいよ」と言っておられたので、エニアグラムに関する本を書いたということで、批判することはおできにならなかったのでしょう。

 エニアグラムが一般に知られるようになり、その団体にもテレビ取材の申し込みなどがあり、G先輩と筆者はある番組の企画で、芸能人のパートナーの方々を対象にワークショップを行うなどの広報的な活動も続けていましたが、団体が主催するセミナーではファシリテーター部会の先輩女性と先輩男性が中心になり、私たちは次第にそういった活動の中心から排斥されていくようになりました。

 以前は、親し気な感じで近づいてきていた方が、ある時を境にこちらをにらみつけているというような状況は、明らかに健全ではありません。しかし、じっさいに、そういうことが起きていました。

 人間的な、あまりに人間的な!



 
 そして、2年間の理事の任期の終わりが近づいたころ、理事会メンバーの中では継続して現在の理事とさらに新しい理事を加えて活動を行っていこうという共通理解がありましたが、当時の会長からは筆者とG先輩にはやめてもらうという上からのお達し。そのときファシリレーター部会の先輩男女はその場には現れませんでした。

 当時の理事であった上智大のR教授(イエズス会)、ある会社の理事職にあったK先輩も、会長の一言は飲めないとして、私たちの理事続行を主張しました。もちろん、筆者らは理事という立場にしがみつこうとしていたわけではありません。筆者もG先輩も、はっきりしない理由のために、そういった上からの通達にはとうてい納得がいきませんでした。

 R先生は意見の食い違いや方向性の違いがあるならば、またファシリテータ部会の要望があるなら、話し合ってすり合わせをしていったらどうかと提案されましたが、当時の会長はR先生の提案を受け付けませんでした。

 私たちはみな、エニアグラムの普及に関して、その団体でまだやれること、やるべきことがあると思っていたのですが、結局、一人を除いて、その時の理事はみな退任しました。

 当時、その団体ではリソ&ハドソンを招聘し、セミナーを行っていたのですから、今後どのような受け皿を用意してセミナーを行っていくか、また何等かエニアグラムについての資格に関する認定制度などの準備も行っていく必要があるのではないかといったことが、話されていたからです。NPO法人化へ向けての準備なども行っているところでした。

 ここまで書いてみて振り返ってみれば、まあいろんな団体でよくあるもめごとにすぎないのかもしれないと思いますが、筆者が当時の会長から呼び出され、話されたことは、筆者にとっては、文字通り”脱力”の事態となりました。

 そして、「いったい人はエニアグラムで成長するのか? エニアグラムがほんとうにコミュニケーションツールとなりうるのか?」という問いを、筆者自身に突き付けることになったのです。

 当時、新宿南口の地下にあった喫茶店に、いまは居酒屋になっている場所ですが、その喫茶店に筆者は呼び出されました。

 そして、会長から、あなたが書いている本は著作権違反で、アメリカのリソたちに知れたらどうなると思うか、というようなことをとうとうと話されました。筆者はどこがどう著作権侵害に当たるのかわからないので、もっと具体的に説明していただけませんか。先輩女性の書かれた本はOKで、筆者が書いている内容が著作権違反というならそれはどういう点なのでしょうかと尋ねました。

 すると、当時の会長はこう言いました。

「あなたがどんなことを書いているのか、わたしはあなたの本は読んでいないから知らない」

 「読んでおられないのに、どこがどう著作権違反に当たると言われるのですか?」

 今にして思えば、明らかに愚問だった。のですが、筆者はそれ以外に言葉がありませんでした。

 「要するにだね」

 そこで、会長の言葉のトーンが変化しました。

「先輩を差し置いて、目立つことをするなということです。あなたが物書きなのはわかっているので、物書きなら書けばいいでしょう。あなたも知っているでしょう。出る杭は打たれるという言葉を。書きたいなら、書くのは自由だが、おとなしく家で書いていたらどうですか」

 このとき、筆者はもうその団体ではやっていけないことを悟りました。いかなるワークもここではできない。それは理事がどうとかこうとかいう問題ではなく、エニアグラムに取り組ぬ基本的な姿勢と、ともに学び心の内を分かち合うことのできる人々との交わりという点において、もはやここではそれは不可能だと感じたのです。


 

 この間のごたごたは、リソ&ハドソン両師が次に来日された時に、不名誉な誤解が生じないために、直接お会いして説明しました。もちろん、魂の教師であるお二人には、自分たちを招聘している団体のなかで、あまり健全ではない動きが生じているということは十分に察しておられるところでした。

 ここまで書いてみて、いまだ後味の悪い感じがしますが、ここを通らないと話を先へは進められないという思いもあり、およそ霊性などとは程遠い内容について書いてみました。

 この一連の経緯について、筆者がまったくイノセントだったと主張するつもりはありません。しかし、パーソナリティのとらわれは、他者をゆがめた形で解釈し、不都合なものとしてとらえるのではないかと思います。

 結局のところ、「あのタイプは嫌いだ!」「あのタイプはなまいきだ!」という見方が、その個人を認めない、その存在をも目の前から排除したいという気持ちにさせることは、大いにあり得るのでしょう。

 その間の事情をご存じなく、その後その団体の責務をお引き受けになった方とは、本来ならのちのちよい関係が作れたかもしれない機会をモテないまま年月が経ちました。

 1999年、筆者は理事を降りた先輩方々、また筆者らの活動に共感してくださった方々とともに独自に勉強会を発足しました。当初、新宿で集まることが多かったので西新宿倶楽部という名称にしていましたが、2000年より、エニアグラムアソシエツに改めました。

 メルマガの創刊号には次のように記しています。

「西新宿倶楽部(エニアグラムアソシエイツ)はそれぞれに異なる職業やライフスタイルを持ちながら、エニアグラムという一つのシンボルを通して出会った仲間が集う場所です。メンバーのひとりひとりは独立した個人であり、自由な発想で自らの目指す方向を探求しています。」

 ところで、エニアグラムにまつわるごたごたは、オスカー・イチャーソが、エニアグラムに関する本を書いたイエズス会士を著作権侵害で訴えたとか、イチャーゾがヘレン・パーマーを訴えたという話が伝わっています。

 パーソナリティシステムのエニアグラムは、その出自からしてそれに関連する人々の間に、葛藤を引き起こしています。

 人間に可能な精神的成長と変容のプロセスを示すエニアグラムが、なぜあまりにも人間的なレベルでのごたごたを引き起こすのでしょうか。

 はたして、エニアグラムで人は成長するのか?

 『グルジェフを求めて<第四の道>をめぐる狂騒』(W.P.パターソン著・古川順弘)コスモス・ライブラリーという本があります。アメリカのジャーナリストが書いた本で、前半三分の一「第一章:エニアグラムはいかにして市場に現れたか」においてエニアグラムにまつわるごたごたについて触れています。

 人間潜在能力回復運動(ヒューマンポテンシャルムーブメント)の一環として現れたエニアグラムとそれに関連する人々について書いてありますが、わりあい下世話な内容です。
 

 筆者自身も、今回は下世話な話を書いてしまったので、最後はこんなふうに締めくくりたいと思います。

 「エニアグラムはどこかに埋もれていた宝に例えられる。

 その宝を発見した人は、黙ってはいられず人に伝えた。

 そのことを聞きつけた人々が、自分もその宝を得たいと集まってきた。そして、じっさいに宝を手にして、その輝きに驚嘆した。

 しかし、最初に宝を見つけた人は、それは自分のものだといい、他の人がその宝に手を付けようとすると、自分のものを盗んだと言った。

 じつのところ、埋もれていた宝は誰のものでもなく、誰のものでもないならそれはみなで分かち合うこともできただろう。

 けれども、宝を目にした人々は、気前よくそれを皆で分かち合おうとするだろうか?

 他人に盗まれないように囲い込もうとするのではないだろうか。そして、他人が見つけた宝は、それは不純物が混じっている、偽物だというのではないだろうか。

 真の宝の価値は、分かち合うことによってこそ、輝き出るものだ。」


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