2018年10月31日(水)
エニアグラムをめぐる随想 その5 とらわれ
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誰でもが陥る可能性のある
心のとらわれ 性格の罠


 エニアグラムがどこから来たのかについて、キリスト教の教父エヴァグリオス・ポンティコスの名が挙がっており、これは9つのタイプのとらわれと関連するものになります。オスカー・イチャーゾによって、エニアグラム図の上に配置された9つのタイプのとらわれ(と美徳)は、とくにカトリックグループにおいて、「罪の傾向」として説明されています。罪(sin)とは神から離れる傾向を意味しています。

 カトリックグループの解釈では9つのタイプにおける罪の傾向のうち、7つは聖書にしるされた「7つの大罪」からきているとされていました。
 
 すなわち、憤怒・高慢・妬み・強欲(溜め込み)・貪欲・肉欲・怠惰の7つです。

 そして、残りの2つは当時、筆者が理解していたところでは、あまりにも人間の罪として普遍的なものであるので、この7つの内には入っていないということでした。

 それが、虚栄と恐怖です。

 エニアグラムの来歴について、当時会員になっていた団体の月例会で、同じことに関心を持っていた英語に堪能な人と彼女が調べてくれた内容を取り上げることになりました。

 ところが、その月例会に筆者らがエニアグラムに出会うよりずっと前からその団体でエニアグラムについて研究しておられた男性が参加され、筆者らの取り上げた内容に対して「エニアグラムのルーツはイチャーゾまでしか遡れないんだ!」と、その場で強く断定されました。

 来歴を探ることに意味がないと言おうとされていたのだと思います。

 残念ながら、その言葉によって、その場の雰囲気は知的に開かれたものではなくなってしまいました。

 1997年に出版された鈴木秀子氏の『9つの性格』(PHP研究所)は、前にもお話しした通りベストセラーとなり、翌年のリソ&ハドソンの国際セミナーと宿泊ワークには、それまでよりもたくさんの人びとが参加するようになりました。

 リソ&ハドソンを招聘した団体はそれ以前は、宿泊ワークに参加する条件としてある程度エニアグラムを学んでいる必要があるとしてきたのが、のちになって条件を緩和し、参加希望者はほとんど誰でも参加できるようになりました。

 その団体の会長であった鈴木氏が団体を離れたことによって、鈴木氏に師事する人たちの多くが、鈴木氏のコミュニオンに移られたと記憶しています。

 さらに、そのころTBSのテレビ番組がエニアグラムを取り上げ、鈴木先生はその番組に出演されたので、エニアグラムは広く一般に知られるようになり、鈴木氏のエニアグラムのセミナーやワークに参加される人が増えました。

 一方、もとの団体でも、この機に会員を増やしたいという意向があり、そのためにリソ&ハドソンのセミナーへの参加条件を緩めたとも解釈できます。

 筆者もその団体に貢献できることを考え、女性誌などに記事を書くことが多かったため、エニアグラムの性格診断といった形で、あちこちに記事を書かせていただきました。
 
 しかし、それがのちに筆者がその団体から排除される一因にもなったのでした。



 当時、リソ&ハドソンの宿泊ワークは山中湖畔の研修所で開催されていました。まだ、企業研修などが盛んにおこなわれていた時代です。

 都内からその研修所に向かうときに、筆者はその団体の元理事であり、最初のころ親しくさせていただいた先輩でエニアグラムファシリテーターの女性から、一緒に車で行こうと誘われ、彼女の運転する車に同乗させていただきました。

 その時点では、気持ちの通じる(少なくとも筆者はそう思っていた)会話ができていました。その女性は自身もライターで、自著も何冊か出されており、筆者もライターであることから、エニアグラムに関しても「どんどんお書きなさいよ」と励まされていた(少なくとも筆者はそう受け取ってしまった)のです。

 宿泊ワークの夜の分かち合いで、筆者がシェアした心のうちが期せずして、周りの人の心を動かし、中には号泣された方もいて、筆者にとってはその体験自体が、意識の変容のプロセスの第一段階となるものでした。

 このような場を生み出すことのできるリソ&ハドソン両師に対して、とりわけリソ師の繊細でいながら共感的で受容的な態度と人柄に、すでに故人となられたいまとなっても、筆者は深く信頼を寄せています。

 リソ師はもともとはイエズス会に所属していた人で、イエズス会士は早くから霊的修行にエニアグラムを取り入れていました。

 しかし、分かち合いののち、筆者は先輩の女性の態度の変化に気が付きました。すでに、その方が、筆者が話した後に話されたことから、筆者にはその方の心の内が伝わってきていました。

 その方がどのような内容をシェアされたかは、その方のプライバシーに触れることなのでここでは明らかにできませんが、筆者にはそのときの彼女の心の動きが見えてしまったのです。

 翌日から、その方は筆者の方を見ようとしなくなりました。口もきいていただけなくなりました。その変化が見えていました。

 その方は宿泊ワークののち、それまでわりあい親しくしていた会員の何人かをご自身のところに招き、筆者にはそのことを話さないようにと口止めしたということです。あとになって筆者と比較的親しかった女性から、その話を聞きました。

 性格のとらわれ、正確には感情的なとらわれの中に「妬み」があります。


 その方のとらわれは「妬み」でした。筆者が周りの人を感動させてしまったことから、筆者に対する「妬み」が生じたのでしょう。

 彼女は物書きであり、筆者も物書きです。彼女は筆者より先を言っている人であり、その女性からしたら、筆者は後からくる者。だから、受け入れる事ができた。

 ところが、自分よりも何世代か若い女性が自分が先輩ファシリテーターであるエニアグラムの学びの場で、自分よりも人の心をつかんだということが、おそらく彼女にとっては受け入れがたいものだったのでしょう。

 エニアグラムファシリテーターとして、その方は人の心の機微を理解し、傷ついた心を持つ人がその方の共感的な態度に包まれると、思わず涙してしまうほどの繊細な優しさを持つ人でした。

 けれども、その一方、受け入れないと決めた者には容赦なく受け入れようとしませんでした。

 なぜ、筆者がその方の感情的なとらわれを、このような場であえて記述しようとしているのか、それは筆者の勝手な解釈ではないのかと、そう思われる方がいたとすれば、それは当然のことだと思います。

 筆者自身、自らが目の当たりにしたその方の変化は信じがたいものでした。ただ、そのときの筆者はほんの一瞬だったかもしれませんが、精神の変容のプロセスを体験し、私心のない心の澄んだ状態にいられたのです。そういう心の状態では、本当に「見えてくる」ものがありました。

 いまは亡き人ゆえに、そしてすでに時がたってしまったがゆえに、もう書いてもいいころだろうと判断しました。

 どのようなとらわれも、そのとらわれの罠に入ると、その人自身やまたその人の周りにいる誰かが苦しみ、傷つくことになります。そして、誰でもとらわれに陥ることがあります。

 自分は霊的な修行の道において、他者より先を行っていると思っている人ほど、思わぬ時に感情のとらわれにからめとられ、そのとらわれのままに行動してしまうことがあるのだと思います。

 筆者にはその宿泊ワークのあと、じわじわとその女性の影響を受けた人たちから批判のまなざしが向けられるようになり、当時所属していた団体の理事をやめるよう、極めて不本意な形で辞めざるを得なくなりました。

 その経緯についてはまた次の機会にお話ししたいと思います。

 私たちは光を求めて、光のある方に進もうとすればするほど、背後にある闇も濃く立ち上がっているのかもしれません。


 
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